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杉戸洋 とんぼ と のりしろ

自分の作品というよりもその空間全体をきれいに見せられたらと思ったんです

ああ、やっぱりそうなのか、そのとおりだったな、と展示を見てから杉戸さんのインタビューの中のこの言葉に、ふかく納得する。

3年間、よく通った都美のギャラリー。
いつも気にしていなかったところに、意識が向けられる。
空間をよく見つめる展示だった。
エレベーターのガラス部分なんて、これまで気にもとめていなかった。

小さ目の作品がいくつも並ぶ吹き抜け空間。この大きな空間に、この小さな作品を並べる思い切りとセンス。はつり壁のラインに沿って、等間隔に並ぶ絵画。凸凹の壁に呼応するように、凸凹の影を落とすフレーム。

杉戸さんの作品をみているようで、その周囲が目にとまる。

ぐっと視点を落とさざるを得ない部屋。
こんなにコンセントの差し込み口が並んでいたなんて。
足元に意識を向けながら歩いていると、床が斜めになっている一角があることに気づいたり、平らだと思っていた床はあちこちが隆起していることに気づく。美術館としてなかなかにハードな環境。

これまでみた作品から、杉戸さんの印象って、大きな空間性のある絵画(舞台みたいな)のイメージが強かったのだけど、その中に思いが少しみえたような気がした。

展覧会タイトルの「とんぼ と のりしろ」の意味。私も、トンボの周りにいろいろ置いてある。印刷物だけのはなしでもなくて、いろんなこと、フレームの外側にあるものにも目を向けるということ。

http://hiroshisugito.tobikan.jp/index.html

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杉戸洋 とんぼ と のりしろ
@東京都美術館
2017年7月25日(火)→2017年10月9日(月・祝)
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eje ものおと/音溶け、今年も

どうしてこんなにもぼんやりと寝起きみたいな気分になるのか、の考察です。
(というか、推測と想像。)

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毎朝、目覚ましが鳴った後の、微睡みの中で、トロトロしている至福の時間。休みの日はたいていそのまま二度寝したり、昼過ぎまで布団の中で過ごしたりする気持ちよさ。

ejeを体験した後はきまってあの感覚に包まれます。

「ものおと」をききながら寝てはいないはずなのに、よく覚えていない夢をみた後のような感覚が身体に残ります。

イヤホンから細く静かにしっとりときこえてくる音に耳を傾け、優しいフォルムのものに触れ、私一人の時間が流れていく「ものおと」の体験は、自分のリズムの寝息の音と温かい布団に包まれて寝ている時と同じなのかもしれません。

昔読んだものがたり、幼い頃のかすかな記憶、ふとしたときに感じる気配や匂い、ぼんやりと浮かんでくることは夢を見ているのとよく似ています。無意識の深層心理を夢にみるのだとしたら、今ここで立ち表れる何とも言い難い感情がプレーンな私なのかもしれません。思い浮かぶ場所、顔、時間などが今の私の基礎なのかもしれません。

そこにあるものは、電話機、机、ランプ、辞書、スーツケース...どれも具体的なものばかりなのに、そこから引き出されるものは抽象的です。その不思議な変換に、いつもいつも、ぼんやりとしてしまうのだと思います。

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好き嫌いはあると思うけれど、多くの人に体験してもらいたい展示です。きっと人それぞれに作品が変化していくと思います。現代美術はよくわからない。という人にこそみてもらえたらいいなあ。


※音溶けは要予約。

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eje ものおと/音溶け、今年も
@TRAUMARIS|SPACE
2013年5月7日(火)→5月12日(日)
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高嶺格のクールジャパン

—まったくもって客観的になれない展覧会だったので、感じたままありのままに垂れ流して書いてみようと思います。(普段から客観的には書いていませんが。)


1「クールジャパンの部屋」

展覧会場の入り口を入るとすぐ目の前に立ちはだかる壁。その目の前の壁一面に描かれた「飽食の時代」。

これはきっと展覧会のプロローグなんだなと思いながら、この先には何があるのか、ここから何が始まるのだろうか、と考えながら、中央の扉を押し開いて先に進む。

次の部屋に入って振り返ってみると、先ほどの壁は薄いベニヤ板で、まるでコントで大袈裟に倒れる背景セットのようだった。そう思った瞬間、「あ、高嶺さんの用意した落とし穴に落とされた。」と感じた。


2「敗訴の部屋」

両側の壁から迫り出してくる原発関連訴訟の新聞の見出しの数々。見出しだけで記事の詳細はわからないけれど、原告住民の敗訴、棄却の文字が並ぶ。正面には毛布に包まり携帯を握りしめる若者の塑像。キッと強い視線。

眼から入ってくる情報と壁から感じる圧迫感に、足取りが一歩一歩重くなっていく。伏し目がちに座っている看視員さんもこの空気感に押しつぶされないように必死になっている展示の一部のようにみえる。
ちょうど新しい安全基準の骨子案の話を聞いた後だったものだから、ますます気持ちが悪くなってくる。
当たり前と思うことが当たり前とされないこと、正しいと思えないことが正しいとされてしまうこと、結局今になってほら。って言っても取り返しはつかない。

心の中で、グツグツグツグツと何やら正体のわからない何かが煮えてくる。

黒いモシャモシャを掻き分けて次の部屋へ進む。
本当にこの先に部屋があるの?と思うくらいに長く感じるモシャモシャの通路。
このモシャモシャ、うっとうしいったらありゃしない!顔にびろーんと貼り付く...


3「標語の部屋」

薄暗い部屋の中に回転する電光掲示板の札が天上から吊るされ、そこに次から次へと標語が流れている。
「笑顔」とか「みんな」とか「明るく」とか「やさしく」とか、そんな内容。

多分、日本人の誰もが知らずのうちに口ずさめるようになっている、五・七・五のリズム。
呪文のようなリズムに感じる嘘くささ。当たり障りのない言葉たちはただのきれいごとにしか聞こえないし、そうであると思っているので(おそらく大抵の大人はそうだと思う。)、嫌な気持ちになる。
札と同じ…

OFFICE BACTERIA「花咲きひらく地上線」

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今年も新年はOFFICE BACTERIAから。


東日本大震災があって、世の中何かが変わったような気がしても、撤兵さんのスタンスは変わりません。
描きたいものを、描く。
描きたいものに変化があったとしても、基本的にやり方は、変わらない。

それでも私にとっては、作品に添えられた言葉がわかりやすくなったように感じられるのは、あれだけの大きな出来事がようやく私の中に取り込まれて、いろんな事がシンプルに明るみに出たからなのかもしれません。
ひとつひとつの言葉が、グサグサと心に突き刺さる手応えと内省。
全てに思い当たるフシがあり、まるで今、私が身を置いている状況に応えてくれているかのようでした。

絵はみる時々で変化する。まさにその通り。
絵と会話をして、それで自分でも気付かなかった自身のことを知り、思い直す作業。
数年前の作品にいまさら気付くことがたくさんあるのは、毎回眼が違っているからだね。と画家は言ってくれたけれど、正直なところ、ぼんやりとしか絵をみれていないのかもしれないという気持ちも、ある。
近頃、自信がなくなっているのがこのあたりにも出てきていることにまで、気付かされました。
いつも考えるのは違うこと。今回はわりと冷静に絵の前に立っていました。



《ブライニクル》。昔みた絵に構成が似ていると思いました。洞窟のような覆われた場所。視線の先にいる動物。
けれど同じではありません。以前の絵は、その洞窟の中でエネルギーを蓄えるような深さがありました。今の絵には、前に進むための力強い歩調があります。そして自由で瑞々しい生命力を感じるのは、描かれたモチーフが増えているためだけではなくて、私たちの環境の変化や考え方が進化したからなのだろうと思います。


さあ、今年も、いこう。


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OFFICE BACTERIA(池平撤兵、ブリアンデカナエ)「花咲きひらく地上線」
@Gallery Conceal
2013年1月5日(土)→1月
13日(日)
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さわひらき Whirl

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スクリーンに映る画は本当のことのようで作りもの。ちょっと不思議で不可解な夢をみているような気分。
さわひらきの作品をみた最初の記憶は2005年の横浜トリエンナーレで、その時からずっと変わらない印象だ。

毛布に包まってごろんと寝転がりながらみたい。という感覚も変わらない。
ネコになりたくなってくる。陽だまりにいるのと同じ。

どの作品も内容を読み取ることが私にはできない。否応無しにぼんやりしてしまう。
眼や耳はただの入力装置で、光と音は記憶や心の奥底に届いてそこで何かが起きているかもしれないけれど、それを意識することができない。
何度みても新しい気づきがある。

そういう気持ちの良さがある。

今回初めて気付いたのは、音。隣の作品の音が聞こえてくる環境で、複数の音をよく聞くことによってあらためて音に意識を向けた。デールバーニングの音。

展覧会のタイトル「Whirl」は会場をまわりながら映像を体感することにかけてつけられたそうだけど、調べてみたら「めまいがする」とか「頭がぐらぐらする」という意味もあって、本当にそのとおり。私にはこっちの方があっているかもしれない。
最後、微睡みから覚めて意識を漂わせる人の映像に自身が重なった。



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さわひらき Whirl
@神奈川県民ホールギャラリー
2012年10月23日(火)→11月24(土)
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※会場内撮影可でした。

内藤礼「地上はどんなところだったか」

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空蓮房とギャラリー小柳での同時開催の内藤礼の展示。
空蓮房は予約制ですが、HPをみるとすでに予約は一杯のようです。


—まずは朝10時に予約した空蓮房へ。

直島のきんざや豊島美術館のように、このインスタレーションのために建てられたような空間。
玉砂利の通路をキシキシ音を立てて歩いてから、漆喰のやさしい白色が広がる部屋に入る。
角のない部屋は薄明かりが充満していて、まるで霧がかかっているよう。クリアなはずの視界が霞んでいるようにも感じる。何も見えない、ここにある部屋すらも見えない。
天国とはこんなところかもしれないと、ふと思った。

手探りをしながら、自身と部屋の存在を確かめながら、光が射している隣の部屋へすすむ。
そこにあるのは、小さな小さな人の形をしたオブジェ。
着物を纏っているようなシルエットで、ちょこんと部屋の隅に佇んでいる。

「地上はどんなところだったか」—この人は天上の人だろうか。

耳を澄ましていると、こどもたちの声、工事の音、車のエンジン...町の様々な音がきこえてくる。
来るときに小学校があったし、作業している人もみかけたし、この部屋は通りに面している。
でもここは真っ白な房の内。音には現実感がない。

人形をじっと見つめていると、次第にぼんやりと焦点が合わなくなり、視界から人形が消えた。
意識を手繰り寄せまばたきを数回すると、また人形が現れた。

床、壁、天井、全てが一体となった部屋の中。決して寒い天気ではなかったが、時折漆喰の向こうからひやっとした温度を感じる。
その度に身体から抜けかけていた魂が戻ってくるように、はっと正気に戻る。

終いには時間の感覚もなくなり、与えられた1時間が長くて短くて、永遠のようで一瞬のようだった。

今、ここで、自身の中にある様々な想いが走馬灯のようにめぐる。
次から次へと、取捨選択をするように。
そして残ったのは、ただ「私が在る」ということだった。
残しておきたい大切でかけがえのないものも、全ては私の内に在ること。それが全ての事実。
「地上は私が在ったところ」そんなこたえが浮かんできた。

あの空間にあったのは、人の形のオブジェとその気配だけ。
作品は物そのものというようりは、そこに生まれる感覚の全てであり、オブジェたちはそれを引き起こすための引き金にすぎない。そんな風にも思った。


—そしてギャラリー小柳。

さっきの人形がたくさ…

リー・ミンウェイ展 澄・微

《記憶の織物》
箱のリボンをほどいて、一つずつ丁寧にみていく。
蓋を開けると誰かの思い出や感情がふわっと溢れてくる。

だけど、心の中に残るのは箱の中身をみながら振り返った自身のことばかり。
祖母から母へ、母から娘へと受け継がれている着物のストーリーを私はニットのワンピースに置き換えて、いつか娘に着せられるように大事に着ようと思いました。それと、棒編みは気分で編み目が揃わず苦手なので、私も編み機を覚えようと。


《手紙のプロジェクト》
このプロジェクトについての作家のことばの中に、「......そしてその想いを手紙に書いて、更には他の人とシェアすれば、気持ちが楽になるかもしれない、と気付くのです。......」とあります。
私もさっき箱を開きながら心の中にあらわれてきた気持ちを書き綴りたくなったけれど、この気持ちは展示に収めるのではなくてちゃんとお墓参りをしたときに伝えようと思いました。

何に関しても、どうしても私は本人に伝えないと気が済まない質のようです。
そして、アート大好きなのにもかかわらず、こういうプロジェクトには躊躇してなかなか入っていかない質です。


他人の記憶をみる展示だけど、気がついたら自分の中にある時間を省みる展示でした。
それは一緒に住んでいた父方の祖母が亡くなってからずっと抱えていること。母方の祖母が亡くなったときに強く感じたこと。
そしてここ数年「これまでの家族」「これからの家族」についてたくさん思いを馳せていること。

主観だけで考えていたことに客観と視覚が添えられて、気持ちは変わらないけれど少しすとんと軽くなったような気分になる展示でした。まさに、Visible, Elusive.

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リー・ミンウェイ展 澄・微
@資生堂ギャラリー
2012年8月28日(火)→10月21日(日)
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